本日じゅん62回目の誕生日 昨日の日曜日は子供達にそれぞれ予定があって帰宅が遅くなるということでしたので、平日ですが、お誕生日当日の今日、みんなにお祝いしてもらうことになりました・・・・といっても、夕食後に家族揃ってケーキを戴くだけの謂わばセレモニーみたいな簡単なものですが、子供達が成人してからは、家族全員が顔を合わせ共通の時間を持つこと自体が難しくなって来ていますので、こうしてお誕生日のお祝いをしてもらえるだけでもありがたいことかも。。。
でも、最近思うんですが、時代の変化と共に、様々な生活習慣や仕来りのようなものが変化し、時として消えて行くのはある程度仕方のないことだとは分っていますが、僕の中では「これは我が家の伝統として守って行くべき習慣だなぁ?と思っていたこと」や「他所はともかく、我が家では少なくとも息子の代ぐらい迄は、こうした仕来りなどを守って行ってくれるに違いない」と思っていた考えが、かなり怪しげなものであると思うようになりました。
家族それぞれのライフスタイルが多様化し、誰もが「したいこと」や「しなければならないこと」を山のように抱えていて、どんなに時間があって足りないといった生活ぶりですので、あらゆることが合理的に済まされてしまうのもある意味仕方のないことかも知れませんね。
IT化社会だユビキタス社会の到来だといった言葉ですら、今はもうそれほど耳新しくはなくなりましたが、これにより生活のあらゆる側面がこれまでとは格段に便利になったことだけは間違いありません。今は、何事も出来て当然という感覚が普遍的となり、どんな画期的な道具やシステムが導入されても、さほど驚かなくなりましたが、僕自身の反省も含めて言えば、「こんなに何もかも便利になったのに、なんでみんなやたらと忙しそうで、こんなに時間が無いんだろう?」とか「こんなに余暇に当てる時間が増えている筈なのに、なんでみんなそんなに急いでいて、待ったり、待たされたりすることが苦手になったんだろう?」と思ったりしちゃいます。更にいえば、昔なら気の遠くなるほど時間や手間が掛かったことが、今では殆ど瞬時に出来るようになっているのに、それが当たり前になってしまい、思い通りに出来ないと頭に来てしまって、昔のやり方でやろうとは思わなくなってしまっている」といったことがあまりにも多く目に付きます。こうしたことも、現代社会の変化のスピードが急激過ぎて、人間の心の部分がこの変化に追いついて行けていないことの現われなのかもしてませんよね。
そのせいでしょうか、近頃僕はこれまで以上に公園の植物や庭木を眺めている時間が増えたような気がします。そうしていると、その植物の持っているゆったりとした生命のリズムが伝わってくるような気がして、なんだかとても気が安まります。 そしてなぜか、大学時代の教養課程で動物分類学を教えてくれていた定年間際の教授のこんな言葉を思い出して笑ってしまいます。曰く「人はね、誰も幼少期にはすばしっこく走り回る虫とか小動物に興味を惹かれ、長じて来るに従い、ペットを始めとした様々な動物を愛するようになり、老年期に入ると、次第にその興味が植物へと移って行くんです。僕もそれで若い頃に動物学を専攻したんですが、今は植物が大好きで、家の庭は僕の集めた珍しい植物で埋め尽くされています。でもね、今よりもっと歳をとると、その関心が石に移るらしいです。生命のリズムに調和して、自然と動から静へと興味の中心が移行するんでしょうね? 珍しい石を集めるようになると、その先は。。。。。もうその先は無くて、後は石の下にお隠れになるしかないと言う訳ですよ。あははは。」 僕はまだ石を集める趣味はありませんが、動物よりも植物を愛でる気持ちが強くなった分、歳をとったのかなぁ???